足立さんと鳴上さんの12ヶ月 【7月の記憶:前編】







『何もしらねぇガキのくせに』


『そうしないと、お前らが立ってられないんだろ!』


- あ だち さん  -








午前2時。
飛び起きた身体は汗でじっとりと濡れていた。
首筋をたらりと伝う冷えた感触。
魘されて飛び起きるなんて、久々のことだった。

とても悪い夢だったことは覚えているのに、内容はうすぼんやりとして思い出せない。
唯一の記憶が



- あ だち さん -



あの子よりも低い、静かな声で。

「胸くそ悪ぃ・・・」

同じイントネーションで僕を呼ぶ音が、たまらなく気持ち悪かった。








7月の記憶








side.a



7月だ。
都会よりは断然涼しいとはいえ、八十稲葉にも夏は来る。
ギラギラと威嚇するような太陽が容赦なく脳天に降り注ぐ真昼。
こんなんじゃ聞き込み捜査もクソもない。
上司である堂島と別れてものの数十分、気づけば僕の足は陽気なメロディの流れる大型デパートに向かっていた。

自動ドアをくぐればそこは天国。
このご時世にクールビズがなんだと頑なにネクタイをしめ続けている上司にならい、自分も毎日しめているネクタイを少しだけ緩める。


「・・・ふぅー、あっつ」


最近、夢見が悪い。
正確には、覚えていないから悪い夢を見ている気がする、なんだけど。
それでもやっぱりいい気分にはなれない。
毎日毎日、夜中に飛び起きて時計を確認するのはもう散々だ。

それに、夢の中で唯一覚えているあの声。
自分の名前を呼ぶあの声に、嫌悪感を覚えて仕方が無かった。
柔らかい呼び方も、伺うように少し上がる語尾も、全部同じなのに。
声音だけが違う、そんな気持ち悪さ。

そしてその声は、僕の心臓をざわざわとさせるんだ。





「あだちさん?」




そう、あの子の声はこんな感じでもっと高くて、ころころした感じで
なんかこう守ってあげたいー!みたいな、でもほんのちょっとだけハスキーな感じで・・
つまり、


「かわいいんだよな・・」

「えっ?」

「は?」

「・・・足立さん、どうしたんですか?」

「わっ、わああっ!!」


そう、かわいい。すごく。
今日も、珍しくフワフワした白い膝丈のスカートをはいてて。
そして驚いた僕は、そのかわいいスカートに飲みかけの缶コーヒーをぶちまけたのだった。
















「ご、ごめんっ!!!!!!」



平謝りしてもしたりない。
女の子のスカートをダメにするなんて。
しかも、これは多分お気に入りとかそういう部類に入るものなんじゃないだろうか。
だからってスカートを脱いで洗うわけにもいかず。
代わりのものを買ってあげるにも、こんなスカートで売り場をまわるわけにもいかず。
とりあえず応急処置で水洗いはしたみたいだけど、それで真っ白な生地に落ちた茶色い頑固な汚れが完全にとれるわけもなく。

結局、適当に買ったものを大きめのレジ袋に入れて、スカートを隠しながら帰ることになった。
なんだかもう、最悪だ。



「ほんっっっとに、ごめんね!!」

「足立さん、もういいですよホントに。洗濯したらもうちょっと落ちると思うし」

「でもさ・・・・」

「私も急に声かけたのが悪かったし。足立さん、考え事してたっぽかったのに」

「いやいや、ちゃんと代わりのスカート買うよ!何でも言って、ねっ」

「じゃあ、染みが取れなかったときはお願いします」



道中、謝りっぱなしな僕を鳴上くんは笑って許してくれた。
そのうち、謝るのも申し訳なくなってきてどちらともなく黙り込んだ。
蝉のなきはじめた夏のあぜ道を二人で並んで歩く。

容赦なく降り注ぐ太陽は、鳴上くんの銀灰の髪をまぶしく照らしてとてもキレイだ。
白い肌に色濃く影が落ちて、夏を感じさせてくれる。

足元の影は少し傾いた太陽が角度をつけていて、彼女が歩くたびゆらゆらとゆれた。
そう、ゆらゆらと、陽炎の様に。


「あだちさん?」


なんだ、視界が、端の方から狭まって、
太陽の白い光が、どんどん全体に広がって、
音が遠い、鳴上くんが何か言ってるけど、うまく聞き取れない、
ああ、これは



「あっ、あだちさん!」



いわゆる、



「だ、いじょう、ぶ・・・。ただの貧血・・・。」


多分、ごく一般的にいう、それだった。
本当に、情けない。






しばらく休んだら大丈夫だから先に帰っていい。
そう言った僕の言葉を無視して、彼女は自販機に走り、スポーツドリンクを買って来てくれた。
自分の持っていたハンカチを濡らして、首の後ろにあててくれている。
一番の原因は、連日の寝不足からくる貧血。
そこにこの初夏の太陽が加わって、というところだと思う。
おぼつかない視界もだいぶんとクリアになって、心配そうな鳴上くんの顔がこちらを伺っているのが見えた。
こんな真昼の炎天下の中、彼女まで具合を悪くさせるなんて冗談じゃない。


「ごめん、もう大丈夫。家も近いし、一旦休んでから署に戻るよ」

「ほんとに大丈夫ですか?」

「うん、だいじょーぶ・・・う、」

「大丈夫じゃないです。私も一緒に行きますから」

「えっ、ちょ、だめだってそれは、」

「行きますから」


ダメだ。
鳴上くんはかわいくて、謙虚な良い子だけど。
こうと決めたらてこでも譲らない、そう堂島さんが言っていた気がする。
確かに、どう考えてもこのまま帰ってくれそうにはなかった。
借りているアパートは本当にここからすぐだ。
ゆっくり歩いても5分でつく。
まあでも、まさか部屋の中までは入って来ないだろう。玄関までならいいかな。

そんな軽い気持ちで、僕は鳴上くんと自分の住処であるアパートに向かった。
向かったんだけど。



「寝てて下さい、ちょっと氷借りますね」



何故だ。
なんで僕んちの冷蔵庫を、鳴上くんがあけてるんだ。
彼女ってこんな強引だったっけ。

というか、ほんと、エロ本とかエロDVDとか、しまっててよかった。
昨日ゴミ出しの日でよかった。
腐ったもん冷蔵庫にいれてなくて、本当に、本当によかった!!

布団の上で違う意味でぐったりとしながら、僕は神様に感謝した。



「簡易なんですけど、氷枕です。これあてたほうがいいと思うから・・・。熱中症は怖いんですよ」

ガサガサと何かしてるなと思ったら、タオルに巻かれた氷袋をもって鳴上くんが帰って来た。
勝手にタオル借りてすみません、と申し訳なさそうにしながら渡してくるもんだから、むしろ謝るのは僕の方だって笑って伝えた。

だって、自分の服を缶コーヒーでダメにされたあげく、そのダメにした相手が貧血でぶっ倒れるとか僕だったら捨てて帰るよ。
無意識にふらついてた僕を支えてくれてたから、きっと疲れただろう。


「ごめんね、ほんと。最悪だなぁ僕」

「そんなことないです。むしろ、一緒にいて良かった。
 あんな所で倒れたら、きっとしばらく誰も通りませんでしたよ」

「ああ・・・それはちょっと怖いかも」


そうでしょ?
そう言って笑う鳴上くん。
僕はベッドに寝転がってて、鳴上くんは床にそのまま座ってるから自然と視界に入るのは上半身だけになる。
会った瞬間にぶちまけた缶コーヒーのせいで目に入ってなかったけど、上に着ているブラウスもシンプルな紺がよく似合ってて。

「かわいいね」

つい、口をついて出てしまった。
彼女は少し驚いたような表情をしてたけど、少しだけ照れた様に顔を背けて

「菜々子が選んでくれたんですよ」

そう答えた。



よく考えたら、すごい状況だな。
まだ脳に血が足りていないのか、少しモヤがかった頭で考える。
自分の部屋に、自分の好きな女の子がいて、僕はベッドで、彼女はすぐ傍に座ってる。
でもそれがなんだかとても自然なことのように思えて仕方がない。
これがいわゆる既視感ってやつなのか、確か、そう、もっと前。こんな風に話したことはなかったか。

自分の部屋に"彼"を招いて、くだらない、他愛のない話をして。
つまらない毎日で、何故かそれがすごく大事なことのようだった気がして。
でもそれは僕の記憶なのか?

だって、この八十稲葉に来てこの部屋に誰かを招いたのは・・・・


「足立さん・・・?眠いんですか?」

「・・・ちょっと、うん、眠いかも」

「待って下さい、物騒だから鍵しめてから・・・・」

「・・・・・」

「足立さん?」



ぐるぐると渦に飲み込まれる。
僕の記憶と、彼の記憶と、彼女の記憶と、コレは一体

誰の記憶なんだ











side.u



静かな寝息が、冷房がききはじめた部屋に響く。
足立さんが寝るならおいとましてしまおうと思っていた。
でも、自分が出て鍵をかけてもらう前に彼はことんと寝てしまって、物音のしない部屋で少し途方にくれる。
きっと疲れてたんだろうと思うと、寝入ったばかりの彼を起こすのもしのびなかった。

スカートのコーヒーはすっかり染みついていて、多分もうとれない。
少しお気に入りだったけど、もういいかな。
かわいい格好をして、見せたい人なんているわけでもないし、見て喜ぶ人がいるわけでもない。

でも。
さっき、足立さんが眠る前に褒めてくれた時、なんだかとても胸の奥があったかくなった気がして。
菜々子が一緒に選んでくれた服だったし、なんだか嬉しかった。

ベッドの彼は本格的に寝入っているらしくて、時々身じろぎする以外は起きる気配もない。
正直、時間をもてあますけど・・・・


「鍵あけっぱなしで出るのも・・・よくないし」


なにかあったらと思うと、自分の性格上そわそわして何も手につかないのはわかっている。
やることがないので、少し不躾な気もするけど足立さんの部屋を観察してみた。
男性の部屋に入るという経験はほぼなくて、それこそ小学生以来だと思う。
ほんの少しだけ煙草の香りが漂う、普通の部屋。それなりに散らかっているけど、汚い、というところまではいかない気がした。
少し古そうな、大きめのアナログテレビの傍には本とDVDが積み上げてある。
気になって、さすがにそれはダメだと思い直す。

家主は一向に目を覚ます気配がない。


はねっかえった黒髪。
童顔だけど、呼吸とともに上下する喉仏がやっぱり大人の男の人なんだなと実感させてくれる。
ムニャムニャ言ってるのは子供みたいだけど。

これは本格的に暇。
そう思ったら、むしろ自分も寝てしまえばいいんじゃないかなと思って来た。
心地よい冷房のきいた部屋。遠くに聞こえる蝉の声も、今は何故かまどろみを誘う。
ベッドの端に頭をあずけて足立さんの寝息を聞いていると、なんだかだんだん眠くなってくる。


ねても、いいかなぁ・・・



だんだん瞼が落ちて来て、ああもう、このまま寝ちゃおう。
そう思った時。



バチッ



どこからか、音がした。







「・・・・?」


ジジッ バチッ


今度はハッキリと。
本とDVDが積み上げられたその向こう、大きめのアナログテレビから。
ラジオのノイズのような音が聞こえてくる。

「電源、ついちゃったのかな・・・」

床やテーブルを見回しても、リモコンらしきものが見当たらない。
今度は、テレビの画面にノイズがしっかりうつっていて、どうやら映らない放送局になってしまっているようだった。

リモコンがないなら本体を消すしかないか。

ベッドで眠る足立さんを起こさない様に、そっとその場を離れてテレビに向かう。
相変わらず砂嵐のテレビからは、ラジオのチューニングをあわせるような音が響いている。


ボタンを探そうとテレビに触れた瞬間。


「え?」


ふとあたった小指の先、画面にふわりと波紋が広がった。
気のせいじゃない。
波紋は端まで広がると、だんだん水のようにおさまって。






『あ、みつけた』






とても嬉しそうな、聞き覚えのある声が響いた。


触れてもいないのに波紋が大きくなって、ずるりと、なにか、人の手が伸びてくる。
非現実すぎる状況にまともな反応が出来ない。
その手はさぐるように彷徨ったあと、痛い程の力で自分の腕を掴んで来た。

金縛りがとけたみたいに強張っていた身体が一瞬で解放されて、でも

「やっ、やだ、やだあああっ!!!」

その時にはもう右肩までテレビの中に沈んでいた。


叫んだ瞬間、後ろでバサリと音がして、そうだ、足立さん。


「なっ・・・鳴上くん!!!!!」


信じられないっていう表情で一瞬こっちを見て、足立さんははじかれたように手を伸ばして来る。
恐怖で頭が真っ白になりそうな中、とにかく彼の手をとりたくて。
でも、テレビの中から強く自分の身体をひきこんでくるその体温がひどく懐かしく感じてしまって。


「あっ」


フローリングに足をとられた次の瞬間、


『お帰り、ユウくん』


そう耳元で囁かれたのを最後に、私の記憶はプツリと途切れてしまった。













side.a



「なる・・・かみ、くん・・・?」

冷房の音がする部屋。
部屋の中にはもう1人いたはずだった。
テレビにゆらめく波紋が、それが嘘じゃないと叫んでいる。


鳴上悠がテレビに”落ちた”


いや、引きずり込まれた。
引きずり込んだものは、”手”に見えた。
そう、人間の、男の手に。



『さあ、どうする?お前は、何を選ぶ』



消えそうになる波紋に、思わずためらいもなく飛び込んでいた。
それが出来るということが、何故かわかっていた。

悪夢が霧の中から浮かび上がるように、それが当然のことなのだと。




僕は、この感覚を知っていた。












(後編へつづきます)








7月からお話の核心に少しずつ迫りたいと思います。
足立さんと悠くんの記憶のお話。

12/02/20