誰もいなくなった。静けさだけが、寒々と家の中に漂っていた。大丈夫か、と問われた。大丈夫、そう返した。一人で平気か、声をかけられた。心配要らないよ、多分、俺は笑った。 そんなの嘘だ。なんにも大丈夫なんかじゃない。 とめられなかった。きっと、あの子が攫われるのを防げたのは俺だけだった。あの人があんな大怪我をする必要だってなかった。全部俺のせいだ。部屋に逃げるように上がってそのまま布団に潜り込んだ。夢だ。これは夢だ。目が覚めたらきっと、いつもの朝が来る。誰よりも早起きな菜々子が起こしにきてくれる。そうだ。そうに違いない。 何も見たくなくて目を閉じた。ぽろりと片目から、もう出し尽くしたと思った涙が一粒こぼれた。 当然、誰の声もしない朝が訪れた。冷蔵庫を開けたけれど、何も食べる気が起きなかったから麦茶だけ流し込んで家を出た。早くジュネスへ行かなければ。早く、テレビの中へ、あの子の元へ行かなければ。助けなくては、俺が巻き込んでしまったあの子を、助けなければ。 天国から地上へと帰ってきた。綺麗なところだった。美しい建築物が立ち並び、花が咲き乱れる、あの子の心の純粋さを示すようなところだった。上階へ登るための道は大きな蔦だった。多分、この前叔父さんにジャックと豆の木を読んでもらっていたからだろう。ああ、叔父さん。心配そうだった。菜々子が快方に向かえばいいけれど。救出に手間取ってしまってもう十一月も半ばだ。あんな小さな子をそんなにも長くあそこに閉じ込めてしまっていた。もしこのまま……いやだ、そんなのは考えたくない。嫌な予感は当たってしまうものだ。やめよう。 冷蔵庫を開けた。中身は代わり映えがしない。やっぱり食欲はわかなくて、そのまま戸を閉めた。ぱたん、と軽い音が虚しく響く。この家は一人には広すぎる。今まで一人でいることなんて沢山あったはずなのに、もう耐えられなくなっている。この家はあたたかかった。すれ違いはあったけれど、それでもここは幸福の塊だった。消してしまったのは、俺だ。 不意に脳天気なインターホンが鳴った。突然の音にびくりと肩を震わせて、時計を見る。もう九時だ。生田目は捕まえて引き渡したから、多分身の危険はない。誰だろうか、思ってがらりと玄関の戸を開けたところに立っていたのは、その生田目を引き渡したばかりの、叔父の仕事仲間だった。 「こんばんは。上がっていいかな」 俺の返事なんて聞かずに彼は俺の横を通り抜けて居間に入っていく。がさがさと音がすると思ったらジュネスの袋を持っていた。買い物に行ってきたようだ。うっすらと食材らしきものが見える。冷蔵庫を開けて彼はうわ、と酷い声で呟いた。ちょっと君、いつからこの中身変わってないの。 「え、と……そろそろ二週間、かな」 「あのね、この時期寒くなってきたし冷蔵庫に入ってるとは言ってもね、生ものなんだから食べ物は悪くなるんだよ。ああ、これとか駄目になってる。今日君の顔見てもしかしたらと思ったけど、来てよかった」 「もしかしたら?」 「何にも食べてなさそう。全然寝てなさそう。やつれてるし顔色悪いし隈ひどすぎ」 「あ……」 そういえば、毎日冷蔵庫を開けて結局何も食べないというのを繰り返していた気がする。弁当も作らなかったけれど、それでも昼休みは誰かしらが誘ってくれて、そのたびに食べ物を口に突っ込まれていたような。皆俺がそんな風になってるのに気付いてたんだ。ここしばらく、たったそれだけの食料と水分で生きていた。そんなんでよくペルソナ使って戦おうなんて思ったな。馬鹿だ。途方もない馬鹿だ。僕が作るから座ってな、と大人はキッチンで作業を始める。 どうして来てくれたんだろうか。俺の顔を見て、と言っていたけれど、別にそこまで親しい仲なわけじゃない。もしかしたら叔父さんに頼まれたのかもしれない。なんたって足立さんはあの人のパートナーだから、動けない叔父さんの代わりに、と。あの人にとって俺なんて、上司の甥程度の繋がりでしかないんだろうから。 意外にも手際の良い音を立てながら料理を進めていく足立さんの背中を炬燵の中から眺めながら、あの日のことを思った。二通目の脅迫状が届いて取調室に連れて行かれた、あの時のこと。今までにないほどの決心をして、叔父さんにテレビの話をした時。叔父さんは失望したように溜息を吐いて出て行った。 涙腺が緩みやすいたちの俺はその時も例に漏れず大泣きしていて、話すのも難しいくらいだったけれど、それでも言わなきゃいけないことは伝えた。はずだ。信じてもらえないのは悲しい。確かに現実離れした話ではあったけれど、あの状況で嘘を言うほど俺は無神経じゃない。俺の涙に価値はない。男の涙なんて別に心動かされるものじゃないし、さらに言えば俺はすぐに泣くから、重みすらもなくなっている。 泣いて泣いて泣き濡れる俺に、信じるよ、と言ったのは足立さんだった。それがただの慰めだったのかは分からない。多分、酷い状態だった俺をなだめるために言ったのだと思う。それでも、今日もこうして来てくれているのだし、足立さんは優しい人だ。頼まれたとしてもこんな忙しいだろう時に。 「足立さん、お仕事大丈夫なんですか? その、まさに今日だったのに」 「あー、うん、見つけたのが君たちだから言っちゃうけどね、とてもじゃないけど話せる状態じゃないよ、あれ。疲弊してるのもそうだけど、錯乱してる。ちょっと落ち着かせないとどうにもならなそうだから、って尋問側の僕たちはとりあえず待機ってことになった」 「そう、ですか」 「ああでも心配しなくていいよ、このままそれで逃げ切らせるつもりはないから。僕もそうだけど、特に堂島さんがね」 「はい」 出来たよ、足立さんが言う。お箸どこ? そのくらいは出します、と立ち上がってキッチンに向かった。お皿に盛り付けられていた炒め物を見ると急に空腹を感じてきて、ついでに腹の虫まで鳴ったものだから、赤くなった俺を足立さんは面白そうに笑った。 二人分の箸を持って炬燵に舞い戻る。湯気ののぼり立つ出来立ての食事は本当に本当に久しぶりだった。元々惣菜飯の多い家だし、人の作った料理をすぐに食べるなんていつ以来か分からない。いただきます、と礼をして一口運ぶ。おいしい。思わず顔が緩む。 「もしかしたら胃が受け付けないかも、と思ったけど心配要らないみたいだね」 「おいしいです、ありがとうございます。なにかお礼がしたいです」 「え、いいよそんな。あ、でもそうだな、今度うちにおいでよ。で、今度は僕に君が料理作って」 「そんなんで良いんですか?」 「うん。しばらく人の手料理って食べてなくてさあ。いいなあって」 「分かりますそれ。いつでも遠慮なく呼んでくださいね」 「君も、遠慮しなくていいんだよ」 「え?」 「一人は寂しいでしょ」 硬直した。多分誰にも分かっていただろうけれど、誰も言えずにいたこと、誰にも言えずにいたこと。一人は寂しい。誰もいない家で夜を過ごすのは恐ろしい。寒々しいこの家にいるのは辛い。 足立さんの表情は変わらない。何でもないことのように言うその姿が、やたらと頼もしく見える。友人たちは悲壮さ溢れる顔で不安げに大丈夫か、と聞いてくる。その気遣いは嬉しいけれどこちらの気持ちも沈んでいく。ふと足立さんが俺の目を見てきて思わず震えた。真っ黒な目。何を考えているのかはよく分からなかった。けど、それでよかった。今は人の感情まで受け入れている余裕なんて俺にはないから。 君さ。足立さんは目線を皿に戻して呟く。この前もそうだったけど、結構すぐ泣くよね。空腹なんて生命の第一次欲求にも気付かないくらいだったみたいだけど、最後に泣いたのいつ? 何か言いたくて、けれど息しか出なかった。いつだろう。多分、あの日以来一度も、俺は。 言葉に詰まる俺を見て、やっぱりね、と呆れたように溜息を吐いた足立さんは、席を立って俺の隣に腰を下ろした。すぐ傍に人の体温を感じて、改めてこの家に俺以外の誰かがいるということを実感した。頭に手を置かれて撫でられる。結構大きくてしっかりした手だった。 「馬鹿だね、泣くってのは一番精神を落ち着けるのに役立つんだ。君みたいにすぐ泣いちゃう子がこんなに辛い状況にいてそれすらできなくなってるって、相当やばい状態だよ。溜め込んで爆発して壊れちゃう前に泣いておきな」 「そ、んな、」 「言ったでしょ、遠慮しなくて良いって」 そのまま置かれた手で胸に引き寄せられる。もう片方の手で背中を落ち着かせるようにぽんぽんと柔らかくはたかれて、何も見えなくなった。じわっと目にあたたかいものを久々に感じて、喉が痙攣する。抱きしめてくる人の背広をぎゅうと掴んで、泣いた。縋るものがなければそのまま縮こまって消えてしまう気がした。次から次へと溢れてくる涙が足立さんのシャツを濡らしていく。 自分から出て行く水分が、けれど乾ききった俺に雨が降るように染みこんでいく。俺、苦しかったんだ。こんなに、どうしようもなく、人恋しかったんだ。 「さみしい」 「うん」 「かなしい」 「そうだね」 「一人はいやだ」 「それなら僕がいてあげるよ」 きっとすぐに皆元通りになるよ。奈々子ちゃんも堂島さんも元気になって帰ってくる。その時に君がそんなんじゃ驚かれるよ。だからちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝るんだ。耐えられなくなったときは僕のところにおいで。僕も忙しくなるから絶対一緒にいられるわけじゃないけど、それでも君の泣きたいときには居場所になってあげるから。泣きたくて仕方がなくなったら、僕のいるところで泣いて。きっとそばに行くから。 足立さんは優しい人だ。そしてずるい人だ。こんなのってない。これじゃ足立さんから離れられなくなる。ひどい。けれどもう、このあたたかさから逃げられなくなっていた。 料理、冷めちゃったかな。また作ってもらおう。そうしたら、俺もお返しに料理を作ってあげよう。 |